巡見会(椿海干拓に関連する史跡等の見学)2023年10月28日(土)
公開日:2023年10月30日 最終更新日:2023年10月30日
◆昨年(令和4年)11月以来、約1年ぶりに巡見会を開催しました。
◆今回は、本年9月より読み始めた『椿新田之由来』に関連した史跡等を大型バスで巡りました。
◆総会員数48名に対し、参加予定人数は35名の予定でしたが、体調不良等で3名の方が欠席され32名での催行となりました。
◆多少のトラブルも有りましたが、ほぼ予定通り巡見することができました。
【椿海干拓の略年表】
・寛文(1661~72)年中、江戸の豪商白井治郎右衛門が椿海の干拓許可願いを幕府に提出。
・幕府、代官伊奈半十郎に現地調査を命ずる。調査の結果、椿海に水源を頼る下流域の村々に渇水の恐れありとして不許可となる。
・寛文9年、白井治郎右衛門・辻内刑部左衛門が三川ルートの排水路工事に着手するが失敗し、資金が尽きた白井が工事から脱落。
・辻内が単独で工事を願い出るが許可されず、幕閣に繋がりを持つ鉄牛和尚に仲介を頼み干拓許可がおりる。
・資金調達の為、野田屋市郎右衛門・栗本源左衛門を下請けとして参加させる。
・寛文10年10月新川ルートの排水路工事に着手し、約1か月で完成させ排水が始まる。
しかし下流域に津波のような濁流が溢れ、流域の村々の人馬・家屋・田地に深刻な被害が発生し、翌年まで被害が続き幕府は扶食米などの救済策を取る。
・寛文11年、椿海の70%が陸地化。下流域の村々の渇水対策として溜池・惣堀工事を開始。
・延宝2年、新田販売開始
・延宝6年、干拓地に寺や神社建立。
・元禄8(1695)年、椿新田検地が実施される。
・元禄9年、椿新田18ヵ村誕生。
大原幽学記念館:昭和27年、大原幽学の業績が高く評価され、遺跡も学術産業に関する価値があるとして、国の史跡指定を受けました。幽学の居宅であった旧宅、自害の地にもうけられた墓所、教導所である改心楼跡地、耕地整理跡地の水田である耕地地割などから構成されています。
館長及び学芸員より記念館内外の展示物や遺跡についての丁寧な説明がありました。
補陀落山福聚寺:延宝6年、辻内善右衛門の出願により建立された三社五ヵ寺の内の一つ。
山城国浄住寺の末で、黄檗宗の寺院。開山は鉄牛和尚。晩年をここで過ごした鉄牛和尚の遺言で、同寺内で荼毘にふされ、石塔がたてられた。
仙瀧山龍福寺:真言宗智山派の寺院。通称「滝山、岩井の瀧不動」と呼ばれるように、嘗ては湧水が滝となって流れ落ち、椿海の重要な水源の一つであった。
現在も境内には大滝・金剛の滝などが残る。
干拓後は、灌漑用に造られた袋溜(溜池)の水源の一つにもなった。
鎌数伊勢大神宮:寛文12(1672)年、伊勢内宮荒木田の神主・梅谷長重の創立。
干拓完成後、辻本善右衛門の出願により建立された三社五ヵ寺の内の一つとして、新川の水落口に近い現在地に移された。
地元では「お伊勢さま」と親しまれている。
新川:新川ルートは、既存の仁玉川に繋ぐ当初最も可能性の高いルートとして候補に挙がったが、下流域の村々から反対や伊奈半十郎の調査により一時はとん挫した。
このため椿海東部の後草村から三川村の三川ルートに変更になった。しかし、三川ルート着工も資金難や難工事により中止となった。
その後、新川ルートに変更するが、下流域村々の反対を恐れ、寛文10年10月の着工から1ヵ月足らずで完成させる・