巡見会(久里浜・浦賀方面の見学)2024年10月26日(土)
公開日:2024年10月29日 最終更新日:2024年10月29日
◆昨年(令和5年)10月に実施した椿海関連施設の見学に引き続き、約1年ぶりに巡見会を開催しました。
◆今回は、本年より読み始めた『幕府新令』に関連した地域として、久里浜・浦賀方面を大型バスで巡りました。
◆浦賀地区は大型バスの停車可能な場所が少なく、又浦賀渡し舟の定員が12名と少ない為、全体を4班(A班~D班)に分けコースを変えて巡見しました。
◆事前にシティガイド協会にボランティアガイドをお願いし、3名のガイドに同行いただき、案内をしていただきました。
*A班で1名・BC班で1名・D班で1名の合計3名のガイド
◆総会員数50名に対し、参加予定人数は39名の予定でしたが、体調不良等で6名の方が欠席され33名での催行となりました。
◆多少のトラブル及び班別の進捗の誤差等も有りましたが、ほぼ予定通り巡見することができました。
ペリー公園:日本の歴史公園100選にも選ばれている、ペリーの久里浜上陸を記念して作られた歴史公園です。
園内にはペリー記念館、ペリー上陸記念碑および記念碑広場、児童広場があり、約250本の松の緑の向こうに久里浜の海と青い空が広がる見事な景観も魅力です。太極拳や音楽会などのイベントも行われるなど、市民の憩いの広場として親しまれています。
また、毎年7月には、ペリー公園を会場として久里浜ペリー祭が開催され、記念式典やパレード、花火大会などが行われ、10万人近くの人で賑わいます。
浦賀の渡し:東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つです。
この渡船がいつ開業したのか特定することはできませんが、享保5年(1720)に浦賀奉行所が設置されて間もない享保7年から享保18年までの11年の間に渡船が操業されたものと考えられます。
この航路は「浦賀海道」と名付けられて横須賀市道2073号となっており、1日80~250人の利用があります。
浦賀ドック:浦賀駅の階段を下ると、造船所跡の巨大な建物とクレーン(一部解体しています)が目の前に広がります。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地です。
平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造され、街はで働く人たちでにぎわいました。
レンガ造りのドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけです。
令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄付していただきました。
西叶神社:【由緒】当社は養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。
その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177?1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。
養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。
東叶神社:浦賀の港を挟んで、東西の叶神社が向かい合っています。
社務所の裏には井戸があり、勝海舟が咸臨丸での太平洋横断前に、この井戸で水垢離(みずごり)をした後、明神山山頂で断食をしたと伝えられています。
拝殿前の狛犬は、それぞれ子供を抱いていて、右側の狛犬はお乳を飲ませています。また、狛犬は口を開けた「阿(あ)形」と口を閉じた「吽(ん)形」で一対をなしていますが、東叶神社の狛犬は、左右とも口を閉じているように見えます。
西叶神社の狛犬が、いずれも口を開けているように見えることから、東西で一対となっているとの説もあります。
願が「叶う」、叶神社。パワースポットとしても人気があります。西叶神社の勾玉を、東叶神社のお守り袋に納めて身につけていると、恋愛をはじめさまざまな良縁を結んでいただけるそうです。
東西の叶神社は、浦賀の港を行き来する「浦賀の渡し」で結ばれています。
東福寺(延命山・曹洞宗太玄派):このお寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって改宗され、禅宗のお寺になりました。
江戸幕府から御朱印地二石をもらっており、浦賀奉行も就任すると必ず仏参しました。
本堂には江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一が描いた大きな「亀」の絵馬があります。
本堂より一段低いところある観音堂の観音菩薩は「海難よけの観音様」として信仰されています。
徳田屋跡:浦賀は宿場ではなかったので、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則として禁止されていました。しかし、身元の確かな人(通行手形などを所持している人)は、村名主のところに頼むと泊まれる家を紹介してくれ、そこに宿泊することが許されました。浦賀を訪れる人が少ないうちは、この方法で対応できましたが、数が増えてくると対応が困難になりました。
そこで登場したのが、幕府の許可を得た旅籠でした。
文化8年(1811)3月に、初めて東浦賀に3軒の旅籠が許可されました。
なお、西浦賀の記録はありませんが、同時期に許可されたものと考えられます。江戸時代後期から明治時代にかけて、浦賀で旅館の話をするときに忘れることのできない代表的なものは、東浦賀の徳田屋と、西浦賀の吉川屋です。
吉川屋は明治30年代で姿を消しましたが、徳田屋は、大正12年の関東大震災まで存続しました。今は、その跡に碑が建っています。
参考資料として、下記HPより一部転載
①浦賀観光協会HP
Uraga Tourism - 浦賀観光協会 (yokosuka-kanko.com)
②横須賀市観光協会HP
浦賀駅コース - 横須賀市観光協会|イベント・ツアー・ホテル宿泊情報 (yokosuka-kanko.com)